『一味違う、大陸系生命環境倫理学の導入』 本書は第1章と第6章で、ドイツにおける国家レベルの二つの生命倫理委員会(「連邦議会審議会」と「国家倫理評議会」)をめぐる相克を描き、我が国における政策提言に結びつくような、恒常的で政治的圧力から自由な研究機関の設置を説いている。 「人間の尊厳」が空疎な観念でないことを著者は丁寧に解説する。インフレ的濫用に陥らずに積極的な展開はなし得ないのか?第2章ではそれを試みている。 第3、第4、第5章で、具体的問題について検討が加えられる。「ヒト胚の地位をめぐって」、「遺伝子情報の取り扱いについて」、そして「エンハンスメント(増進的介入)」。その行き着く先は何だろうか?医療の「サービス業」への変質。患者は「病める人」から「顧客」へ、そして、医師は人体改造の「請負人」へと変貌するだろう。著者は医療の本来の使命や目的は何かという、医の自己了解が問われている、と投げかける(130頁)。この問題に連関して、著者は二人のドイツ人哲学者の見解を紹介する。赤ん坊は親や養育者の世話無くしてはやがて確実に死亡する。それが人間の出発点である。人生の最期を迎えるときも同様であろう。「弱さを根本的に克復しようとするエンハンスメント的志向には、かえって危ういものがある」と著者は言う。 「ヨーナスは「責任」の原型を、ほって置かれたら生き延びていけない乳飲み子の全身による呼びかけ、それに応える親の世話のなかに見た。・・・シモンヌ・ヴェーユの言う「権利に先立つ無条件の義務」である。このような意味での無条件の義務と責任が人間社会を支えてきた。増進的介入によって「身体の傷つきやすさ、壊れやすさ」を乗り越えようとする試みは、このかけがえのない価値を失うことになりはしないか?増進的操作への熱中は生(Life)を貧弱なものにし、連帯社会を危うくするリスクを孕んでいる。」(146頁) 著者は、人間の条件としての「人間の<弱さ>の価値」に関心を寄せる。同感できる。
喫緊の主題を扱う書名からして魅力的である。副題「ドイツ生命環境倫理学に学ぶ」も興味をそそる。我が国では生命倫理学でも偏向性が見られるからである。著者は、「自己決定権を重視するアメリカ流のバイオエシックス」追随ではなく、「それとは一味違う特徴を描いてみたい」(まえがき)と言う。